海軍特別攻撃隊員の遺書 (散る若桜) 22 | 針尾三郎 随想録

   海軍特別攻撃隊員の遺書 (散る若桜) 22

 海軍二等飛行兵曹  山口一夫

  (神風特攻・第3御楯隊、大正14年6月24日生。第12期甲種飛行予科練習生。昭和20年4月6日、南西諸島方面に於いて戦死。20才)


 我今より死に就かんとす

    何も云う事なし

 生前の御不幸の数々をお許し下さい

   父母様



 海軍中尉  渡部一郎

  (神風特攻・右近隊〈戦304飛〉、大正12年3月9日生。海軍兵学校71期。昭和19年10月26日、比島タクロバン水道にて戦死。22才)


 御手紙有り難う

 元気で勉強居る由、兄ちゃんも元気。毎日軍務に服している故安心してくれ。

 毎日海水浴に行っている由、真っ黒になっていることと思う。大いに体を鍛えて早く兄ちゃんの後に続け、其れまでは御両親様の言われる事をよく守り、兄ちゃんの分まで孝行をしてくれ。

 兄ちゃんもしっかりやるからお前もしっかりやれ。 さようなら

                                         (注・弟良次君への遺文

謹啓

 長らく御無沙汰いたしました。内地はもう寒いことと思います。

 私相変わらず元気旺盛、敵撃滅に奮闘中です。さてこの度選ばれて当隊よりの特攻隊長として、今より敵空母撃滅に向かう事となりました。男子の本懐之に過ぐるものはありません。これまでにして下さった御苦労は明日の戦闘に於いて、必ずや敵空母の轟沈となって花を咲かす事と信じて居ります。

 天祐神助我にあり、必ず成功します。

 お父さんお母さんの側で孝養を尽くすことは出来ませんでしたが、大君の御為します。末永く御元気に御暮らしの程を大空より祈って居ります。

 忙しいので皆様に手紙を書く暇もありませんから、お父さんお母さんから宜敷御伝へ下さい。麟伯父さんには特に御世話になりましたから呉々も宜敷。其のうちに私の部下の名も分る事と思いますが、部下の遺族の方々にも宜敷。

   さようなら                         一郎

天皇陛下万歳  海軍航空隊万歳

   父上様  母上様   

          10月26日



 海軍少尉  今西太一

  (回天特攻・菊水隊、大正8年5月27日生。慶応大学経済学部。昭和19年11月20日、ウルシー海域にて戦死。25才)


 お父様

 フミちゃん

 太一は本日、回天特別攻撃隊の一員として出撃します。日本男子と生まれ、これに過ぐる光栄はありません。勿論生死の程は論ずるところではありません。私達は今の日本が、この私達の突撃を必要としているという事を知っているのみであります。

 上御一人に帰し奉るこの道こそ、太一、26年の生涯に教えられた唯一のものであり、そのままの生き方をなし得る今日を喜ぶものであります。連合艦隊司令長官は、私達に短刀を下され、出撃を祝して下さいました。また長官は只今内地においでにならぬと言うので、海軍大臣がこの短刀に護国の二字をしたためられ私等所属の艦隊司令長官より、伝達されました。

 最後のお別れを充分にして来るようにと、家に帰して戴いた時、実のところはもっともっと苦しいものだろうと、予想して居たのであります。しかしこの攻撃をかけるのが、決して特別のものではなく、日本の今日としては当たり前のことであると信じている私には、何等悲壮な感じも起こらず、あのような楽しい時を持ちました。坂本竜馬、中岡慎太郎、木戸孝允と先輩諸兄の墓に詣で、ひそかにその志に触れたと思ったのでありました。何も申しあげられなかったこと申し訳ない事とも思いますが、これだけは御許し下さい。

 お父様、フミちゃんのその淋しい生活を考えると、なにも言えなくなります。けれど日本は非常の秋(とき)に直面しております。日本人たる者、この戦法に出ずるは当然の事なのであります。日本人としてこの真の生き方の出来るこの私、親不孝とは考えておりません。淋しいのはよくわかります。しかしここ一番こらえて頂きます。太一を頼りに今日まで生きてきて下さったことも充分承知しております。それでも止まれないものがあるのです。

 フミちゃん、立派な日本の娘になって幸福に暮らして下さい。これ以上に私の望みはありません。お父様のことよろしく御願いします。私は心配をかけっ放しでこのまま征きます。その埋め合わせお頼み致します。他人が何と言えお父様は世界一の人であり、お母様も日本一立派な母でありました。この名を辱しめない日本の母になって下さい。この父と母の素質を受け継いだフミちゃんには、それだけの資格があるのですから。何にも動ずる事がない私もフミちゃんのことを思うと、涙を止めることが出来ません。けれどフミちゃん、お父様泣いて下さいますな、太一はこんなにも幸福に、その死所を得て征ったのでありますから、そしてやがてお母様と一緒になれる喜びを胸に秘めながら、軍艦旗高く大空に翻るところ、菊水の紋章も鮮やかに出撃する私達の心の中を何と申しあげれば良いのでしょう。

 回天特別攻撃隊菊水隊、今西太一 只今出撃致します。

 お父様、フミちゃん御元気で幸あれかしと祈っております。

      ますらおの かばね草むすあら野べに

           咲きこそにほへ 大和なでしこ(伊林光平)

 元気で征って参ります。         出撃の朝  太一


○渡部中尉は海軍兵学校71期の人であった。前にも書いたが我々78期生を分隊監事として、日々教育・指導してくれた昭和20年当時大尉であった方々と同期の人であった。であるから渡部中尉も特攻で戦死をしていなければ大尉になっていた人であった。尤も特攻で戦死は全員〝2階級特進〟ではなかったかと思うが、そうであれば少佐という事になる。

 昔から兵学校では後輩生徒の〝躾・教育〟は、最上級生である1号生徒の役目であった。即ち家の中の〝兄貴〟である。したがって1年生である3号生徒に対しては、動作の中止を命ずる〝待てィ〟は日常茶飯事で、そして時には〝鉄拳〟が吹っ飛んできた。

 我々78期生には上級生は居なかったので(針尾分校)、71期の大尉の人がその役目をやった。しかし1ケ部数百名に一人の上級生である。だがその上級生の目は、午前・午後の6時間の課業(普通学の授業)と、夜寝ている時と、日曜日以外は、何処でどう見ているのか我々生徒の行動・動作について、見落としはなかった。

 私も親にさえも、やられたことのないゲンコツを、自分のウッカリで、2度くらった。〝痛かったなァ!〟その分隊監事も昨年の11月85才で亡くなられた。私も〝偲ぶ会〟で一言しゃべらされたが、やはり懐かしかった。

 しかし如何に戦時中とは言え、23才の海軍大尉の〝生徒の教育に対する気概〟は本モノであった。改めてご冥福をお祈りする。

 因みに71期生の採用は昭和14年・581名で戦没率57%、それから神風特攻第1号で戦死をしたとされる関 行男大尉は、70期生で採用は昭和13年・433名で戦没率66%で、とに角これらの前後のクラスがあの戦争の主役であった。


 今西少尉は学徒出身の士官で、しかも〝慶応ボーイ〟であった。そしてその人が遺書にも見られるようにその気概たるや、〝本職負かしの士官〟になってしまった。尤も私の隣の分隊の分隊付き教官であった方は、今もご存命であるが、大阪外語大のご出身でやはり〝本職負かしの士官〟の方であったが、今以て尊敬に堪えない。

 遺書の内容からでは、今西少尉の母親という人は既に亡くなっていたようで、残っていたのは父親と未だ小学生?の妹というような家庭環境の様であるが、それで本人は〝特攻志願で戦死〟では、如何にあの戦時下でも〝親不孝のそしり〟は免れないが、本人は〝死んだ母親に会える〟とも書いているので、遺書だけの文意では窺え知れない、親子・家庭の事情もあってのことかとも思われるが。